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Personal Archives  

僕と東北と津波と原発と

2021.03.11.

#1 まえがき

ここ最近、誰に言われるでも無く、この10年を振り返りたいと自然と思うようになったのは、僕自身のことが大きいんだと思う。自分のキャリア(なんて言える代物ではないが)の全てが2011年から始まった。震災直後なんて、自分は本当に何でもないただのカメラを持ったフリーターだった。誰に頼まれるでも無く、それこそ、撮影させてくれた人たちの優しさのおかげで、自分はやっとフリーランスのフォトジーナリストです、なんて言うことが出来た。誰かが見るかなんて分からないまま、その写真の意味さえ良く分からないまま、毎日、自分のウェブサイトに写真を投稿していた。先輩の運転手をさせてもらったり、時には、撮影に伺った先で簡単なアルバイトをさせてもらったり、お小遣いまでもらったり、本当に迷惑かけ通しだった(それは今も全く何も変わっていないけれど、、、)。何とか、この10年間、フリーランスのフォトジーナリストですって言わせてもらいながら生きてこれたのは、本当に自分にとって大切な人との出会いに支えられてきたに他ならない。(たくさんの人に御礼を伝えに行きたいのに、まだそのほとんどが出来ていない。今年こそは、と思っている。)

僕は2011年3月14日に当時勤めていた会社を退職して、親友と一緒に南三陸町に向かった。それから6月11日に父親が死んだ。その翌週に妻となる女性に出会って、その翌週には、福島第一原発で働いていた大切な人に出会い、8月に原発の中に作業員として入った。翌、2012年4月に結婚式を挙げて、その半年後に祖父が死んだ。その翌年の4月に息子が生まれた。それから日本が原発を輸出する予定だったベトナムにも行った。帰ってきてからは、太平洋戦争の被害者の撮影に取り組んだ。二人目の息子が生まれたのはロンドンの大学院に行く直前だった。それからチェルノブイリに行って、帰国後は高知でビキニ水爆実験の被害を追って、それから、それから、と、とにかく色々な方面に動き続けてきた。

はたから見れば、次から次にホイホイと自由気ままにやっていると思われることもあった。(事実、私生活においては間違いなくそうであった。)でも、自分の中では常に、ある種の確信があった。全てのことは繋がっていて、偶発的にも思えるその一つ一つは確かな連続性の中で必然的に起こり、それぞれの出来事はまた別の出来事を導いてさえいるように思えた。勿論、中にはそう思わなければ、自分が平静を保てないから、物事に意味を与えたがっている自分がいたのも事実だ。大切な人の死を必然だなんて言うことなど決して出来ないが、しかし、その喪失を乗り越えるために、そこに意味づけを与える意外に何か別の方法があるのか、僕にはまだ分からない。

コロナがあって身動きが取れなくなった今、小さな子供二人と妻をおいて、どうやってあれだけ家をあけることが出来たのだろうかと、色々な意味で信じられない思いではあるが、この1年の時間もまた、自分にとって、良い意味で何を大切にすべきなのかと言う振り返りの時間を与えてくれた。

自分の10年の記録を振り返ると言うことに様々な意味づけはできるだろう。しかし、記録してきたそれぞれの全ての繋がりを見つめ返すことで、「これから」が明確になることだけは確かなように思える。そしてまた、いつか、自分の「今」を確かめたい時に、未来の僕が、もしくは、子供たちが、その足跡を確かめることために、一抹の文章がきっと何かのやくにたつに違いない。

これから不定期に少しずつ、過去のアーカイブを振り返りながら、2011年からの10年を見つめ直したい。

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2010年12月30日 宮城県南三陸町志津川駅前。酔い潰れた息子を盛岡市から迎えに来た両親。友人宅からの帰宅途中に志津川駅を覗く父親。(中央入り口前)

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2010年12月30日 岩手県盛岡市。

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2011年3月12日 大阪府高槻市。

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