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僕と東北と津波と原発と

2021.03.16.

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#2 東北へ

3月11日(金)

京都の四条烏丸交差点には金融関連のビルがそれぞれの角に一つづつ立ち並ぶ。2009年4月からそのビルの一角に大阪の高槻市から通勤していた。震災当日、僕はそのビルの4階で見積もりをはじいていた。

京都は震度1程度の地震だったから、何事もなく仕事を続けていた。すると隣の課のM先輩が肩越しに伝えてくれた。

「小原、東北がすごいことなってんで」って。

ネットで東北の地震のことを知って、慌てて会議室のテレビをつけた。ヘリからの津波の映像が映し出された。両親に電話をかけた。それから南三陸町出身で当時は東京にいた和也に。集落には2軒しか家が残されていない、という電話を最後に連絡が取れなくなった、と。

3月14日(月)

週明けの月曜日に会社を辞職した。元々、2011年1月に辞表を出し、3月末退社の予定だった。僕は、高校からの夢だったフリーランスのフォトジャーナリストを目指すべく、4月からアフリカのケニアに行こうと機材諸々の準備を進めていた。どうやって、そういう手筈になったのか今では思い出せないが、前倒しで辞表を受理してもらう形で、昼前には会社を去った。辞表が人事部に正式に受理される前に、支店長が「行かなきゃならないんだろ。もう行け」って涙目で言ってくれたことを覚えている。

会社の寮に戻ると急いでレンタカー会社を探した。大阪でレンタルして、東京で乗り捨てられる会社はどこにもなかったけれど、静岡までだったら乗り捨て可能だと日産レンタカーから返答があった。とにかく、北を目指そうと、すぐにレンタカーを借りた。ガソリンの携行缶を買って、その晩、近くのアルプラザと関西スーパーでありったけの食糧を買った。全てが潤沢のように思えた大阪だったけれど、電池は店頭から姿を消していた。少し仮眠をとって、15日の早朝に出発した。

3月15日(火)

名神高速を通りながら、やけに太陽が赤かったのを覚えている。途中のSAで自衛隊や消防の車が列をなしている。都内に入る前のSAで財布をトイレに置いてきた。とりあえず現金が必要だろうと15万くらい入れていたからかなり焦った。次のインターでおり、SAの裏口から入り、高速道路の地下を横断する小道を通って、元のSAに戻った。財布は届けられていて、現金もそのままだった。

物資を南三陸町まで運ぶ算段は、大学時代の友人たちがつけてくれた。当時、ホンダのアコードに乗っていたイワシマのアパートがある埼玉県大宮市までレンタカーで向かい、荷物を積み替える。レンタカーは東京から駆けつけてくれたトダが静岡まで返しに行ってくれる。和也も東京から大宮市に向かい、僕は体を休ませてもらいながら、和也はtwitterやmixiを使って、情報を集めていた。Ustreamがまだ目新しかった頃で、まだまだSNSがほのぼのとしていた時代だ。

夜、静岡で震度6の地震が発生した。静岡にレンタカーを返してに行っていたトダのことが心配になったが、なんとか大宮までその日のうちに戻ってくることが出来た。

その晩、和也の家族の安否確認が出来た。おじいちゃんが行方不明で他のみんなは助かったということだった。

イワシマと二人、タバコを吸いにアパートの外に出た。「なんでだよー」ってイワシマが泣いていた。涙は二階の手すりから下に落ちていった。イワシマが泣いているのを見たのは初めてだった。

3月16日(水) 

翌朝、下道で栃木から山形に入り、それから宮城に回った。原発事故のことはよく分からなかったけれど、4号を突っ切るのはさけた。日が沈み、雪道を走りながら、ラジオから天皇陛下の言葉が聞こえてきた。その抑揚のない言葉にとても怒りを感じたことを覚えている。今なら違う風に取れるけれど、当時はそんな心の余裕はなかった。

夕方、仙台に着いた。翌朝、南三陸町に向かうことにして、その日は大学時代の友人のかっちゃんの実家にお世話になった。

 

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