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kazuma924

ロマをさがして

オンラインマガジン全五回(限定公開)

第一回目 自分の中にある「ロマ」と「ジプシー 」

第二回目 チェコ篇「最もひどい国」へ(8月公開)

第三回目 モルドバ篇「セグリゲーションと孤立」(8月公開)

第四回目 ウクライナ篇「境界を越えるということ、超えられないということ」(8月公開)

第五回目 ポーランド篇「ホロコースト・ロマが虐殺された場所」(8月公開)

第一回目 自分の中にある「ロマ」と「ジプシー 」



ワルシャワからプラハへ


6月19日の昼過ぎに大阪の自宅を出発した私は、関空から羽田、成田、ドーハと乗り継ぎ、現地時間、20日の14時過ぎにワルシャワ・ショパン空港に着いた。ワルシャワはあいにくの雨で、スコールのような強烈な雨が降っては止み、降っては止みを繰り返していた。空港内のコンビニでポーランドのSIMカードを手に入れ、携帯の設定を終えるとスマートフォンのアプリでタクシーを呼び、土砂降りの中、車内に転がり込んだ。


ワルシャワ市内にあるプロラボ「Black and White」2022.06.20 i phoneで撮影


今回の撮影に持ってきたカメラは、フジフィルムのデジタル中判カメラGFX50Rとハッセルブラッドの中判フィルムカメラSWCだ。この10年、それぞれのプロジェクトごとに異なるカメラを使ってきたが、コロナ禍の3年間、この組み合わせで撮影を続けている。機動性のあるデジタルでポートレートなどの人の撮影を、ハッセルのSWCでランドスケープをといった具合だ。SWCは60年以上前のカメラでありながら、現在も世界最高峰の広角カメラとして世界中で愛されている名機だ。今回もその組み合わせをと思い、日本でフィルムを購入して持ってきていた私だったが、久しぶりの国外へのフィルム持ち出しで、早速やらかしてしまった。成田空港のセキュリティーで、機内持込カバンの中に未露光フィルムを入れたまま、X線検査機を通してしまったのだ。(最新のX線検査機は、以前よりもフィルムに何らかの影響を与える可能性が高いことから、フィルムメーカー各社はX線検査機を通さずに、空港係員に目視で検査をしてもらうことを推奨している。)X線を通しにくい特殊な袋に入れてはいたものの、その影響がないかどうかは、現像しないと確かめようがない。トランジットの間にワルシャワ市内で中判フィルムを現像できるお店を探し、私は、まずそこへと向かった。


テスト撮影を行い、現像してみると幸いX線の影響は見られなかった。これで安心して撮影が出来る、そう思いながら、店を後にし、夜行バス乗り場へ向かった。今回の一番最初の取材地はチェコである。車内への荷物の持ち込みで少々トラブルがあったが、22時過ぎ、プラハ行きのバスが予定通り出発した。



プラハへ向かう夜行バスから見える朝焼けの風景 2022.06.21 i phoneで撮影


なぜ「ロマ」を取材するのか?私の中の「ロマ」と「ジプシー 」

チェコの取材内容に触れる前に、なぜロマを取材するのかということについて、私のウェブサイトで触れたことではなく、私自身の経験としてロマと結びついていることを書き残したい。今回のヨーロッパに向かうフライトの中で思い出した、無自覚の中にある私自身が持っていた偏見と差別についてである。



「スリ」と「ジプシー」

私の記憶の中に明確に「ジプシー 」という存在が刻まれたのは2018年のことだった。アムステルダムで一ヶ月のアートレジデンシーを終えた私がハーグに向かう途中の乗り換え駅で待っていた時のこと。スマートフォンで動画ニュースを見ていると、すぐ隣(肩が触れそうになるほど近く)に女性が立ち、数十秒か、もしくは1分くらい、列車がホームに入ってくるまで、私の側を離れなかった。こんなに乗客が少ないのに、なぜ近づいてくるんだろうと不思議に思ったのは覚えているが、動画に集中していた私は、そこまで彼女の存在を気にしなかった。私のウエストポーチが全開になって、財布が無くなっていたのに気づいたのは、列車のドアが閉まり、走り出した時だった。「やられた」と終わっても後の祭り、列車を止めるわけにもいかず、遠くなっていくホームをただ見つめることしか出来なかった。私はその後、友人からお金を借りて、残りの滞在期間をやり過ごした。


ここまでは、間抜けな日本人がやらかしてしまった良くある旅のエピソードだが、私がこの話をここで紹介する理由は、その後、盗難の件を説明しようとした自分の言葉がまさに偏見に基づいたものだったからである。


所持金とクレジットカード、運転免許証などの全てを盗まれ落胆していた私は、ハーグに着き、友人に会うとその全ての経緯を説明した。そのとき、はっきりと私は断言したのだ。「ジプシーにやられた」。私は確かに友人にそう言った。自分はなぜ「ジプシー 」という言葉を発したのか、なぜ自分が「ジプシー」にやられたと明言できたのか。彼女が白人ではないことは覚えている。肌は浅黒く、自分と同じくらいの色だったと思う。長い髪が編み込まれていたのを覚えている。しかし、顔は見えなかった。服装もはっきりと見たわけではない。私は、視界の端に見えるごく子細な情報と、スリという行為を「ジプシー」という属性に結びつけた。差別意識も感じず、ごく普通に口から「ジプシー 」という言葉が出た。そんな感じだったことを覚えている。


今、「ジプシー」と「ロマ」をめぐる偏見と差別のリサーチをしながら、そのことを考えないわけにはいかない。「ジプシー 」が「スリ」であること、その思考を偏見だと思いもしない意識が自分の中で当然のように存在していたこと。そして、そのことを今回の取材まで「忘れていた」こと。私は、財布を盗まれた直後、出会った友人たちの多くに情けない笑い話としてこのエピソードを紹介していた。『「ジプシー 」に盗まれたよ。』と。私は、友人から同情をかうためにロマ の人々をおとしめ、偏見を助長する行為を自ら行なっていた。ロマの人々への差別は、私のような罪の意識すらない無自覚な人間によって、何百年と再生産され、そして、その行為者は忘却を繰り返しながら、ロマの人々を周辺へと追いやってきた。ヨーロッパで根深く残る「ジプシー 」から連想される「物乞い」、「スリ」などのイメージ。それは、ヨーロッパを遠く離れた日本人の自分の中にも無意識のうちに蓄積されていた。学生時代に読んだ旅行ガイドブックに確かに書かれていた。「ジプシーのすりに気をつけて!」。それらは、小説や映画で描かれるロマの描き方と関連し合いながら、私の中でロマの人々とスリを結びつけて行ったのだろうか。このことについては、今後、時間をかけて理論的に考えなければいけない。私はどのようにして、ジプシーをスリと考えたのか。


ロマへのネガティブイメージは社会の多数派の間で共有され、ロマは「ジプシー」として社会の周辺で孤立していく。それら、差別者が生み出した対立構造の最も残酷な帰結の一つがホロコーストをはじめとしたロマ民族の虐殺なんだろう。今回の取材中、何度も耳にしたこと。何かの事件が起きたとき、「ジプシー」が犯人だと言って、ロマの集落が襲われ、人が殺され、家屋が燃やされた。


私は、自分があたかも清廉潔白な立場からロマの人権のために取材をするのだと、少なからぬ正義ヅラで、今回の取材のことを語っていた自分を恥じた。私はまず自分自身に問わなければいけない。私は、自分の差別意識にどこまで自覚的なのかと。そして、差別に立ち向かう正義のジャーナリストなどと言った説教くさい偽りの存在ではなく、特権的なマジョリティーに立つ一人として、まず自分が何を理解し、何を記録出来るのかを考えなければいけない。


ウェブマガジン二回目はチェコ篇「最もひどい国」へ。

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